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臨床医

今までの20年の医師としての職業歴の中で、本当に尊敬できる素晴らしい臨床医は二十人までいかない、というのが当方の印象です。

ある側面が素晴らしい医師は沢山いらっしゃいます。診断の完璧な医師、手技が神業の医師、知識が深く広い医師、研究に卓越した医師、フットワークの軽い医師、患者への説明が上手な医師、人格の素晴らしい医師。それぞれに尊敬できる医師は、本当に沢山いらっしゃいます。

医師としての臨床の恐ろしさは、自分の担当する患者が、自分の得意ではない領域においてでも、次々と医学的危機に遭遇するということです。そして当然ながら、自分の得意な領域は狭く、自分の得意ではない領域が延々と存在します。

しかし、理想の臨床医は多方面で欠落のないことが要求されます。そしてのその要求に答えられる医師は本当に少ない、という実感です。

もし理想の臨床医大会というものがあったとしても、その大会で候補としての手を挙げる医師はほとんどいないと思います。
多くの医師や看護師が、病気になった際に、自分が勤務する病院以外での医療を希望されます。「頼れる医師がいない」ということの表れだと思います。ところが、高齢の医療者になると、自分の勤務する病院に入院することへの拒否感が少ない印象があります。当然、プライバシーの問題も大きいのですが、高齢の医療者には「ここではない何処かに理想の臨床医がいる」という幻想はないのだと思います。

当方は「自分が患者になった時には、自分が患者にした医療レベル(即ち普通のレベル)以上の医療は望まない」と、元気な現時点では、決めています。実の所、決心がコロコロ変わるのが臨床の現場で、この決心が続けられるかは自信はありません。

では、なぜ、多くの患者が破綻なく日々を過ごせているのか?
それは多分、自分で治している、ということだと思います。
身も蓋もありませんが、多分、それが真実ではないでしょうか。

当方は「断定的に物事は言わない」ことを信条(またはこの世界で生きる方法論)として来ました。しかし「理想的臨床医はほとんどいない」ということは、残念ながら、断定的に言えます。

キリストは「その資格のある者だけが石を投げて良い」と告げられました。キリストはこの世界が「理想的ではない人々」で成りたっていることを二千年前に宣言したわけです。欧米がもたらした人類への贈り物の1つは「歴史の進歩とは、人が理想的でなくても破綻しないシステムを形成する過程である」ということを現実化させたことではないでしょうか。

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