学部時代には国内外を問わず旅してきた。
旅に出るたびに感じたのは自分の語学力の低さだ。
語学とは一般的には、
母国語以外の言語を使いこなす力を意味するのだろうけれど、
日本語であっても、様々な種類があることに気付く。
方言はもちろん、
その地域や地区、コミュニティにおけるローカル言語の存在だ。
場所や空間、モノやヒトを共有している証であり、
コミュニティの内的な結束を表すひとつの指標になる得るのではないかと、
私自身は捉えている。
しかし、内側にいる人たちはそれが限定された範囲での道具であることに気が付かない。
外から入っている私のような旅行者が内に入り、
『それってどうゆうことですか』と指摘することで、初めてそれを自覚する。
言語のみでなく、文化や財産、経験などにも当てはまる。
内側に身を置く側にとっては、何でもないことが、
外から来た者や異なる文化圏からすると、
大きな価値や意義を持っていることが、しばしばある。
ひとつの財産は可能な限り、広く共有したい。
人の記憶の中だけに留めておくには、あまりに勿体ないことが、世の中には五万とある。
薬害エイズ事件においても、同様のことが言える。
特定の層だけに限定された言語や文化、価値基準が確かに存在する。
もちろん、そこには抹殺された歴史や事実も、ほこりを被った状態で放置されているはずだ。
患者主導の一連の運動によって得られた成果も山ほどある。
残念なのは、それらが『翻訳家』の不在によって、内側に眠ったままにされていることだ。
個と個の間に聳える壁によって、断絶感漂う現代社会の中を、
いっしょに生き抜くための重要なヒントが、薬害エイズの経験を通して得られるのではないだろうか。
薬害エイズの運動を主導した人間は、
何が何でも、手を取り合って、この社会で生き抜こうとしていたし、
今も『生きる』を勝ち取ろうと、凛として強かな姿で、前に前に進む。
私は、この集団においては、永久に『外部者』である。
しかし先述したように、外者には外者の役割がある。
まずは、同じ言葉を使えるよう『語学』を習得し、
その上で、内側の記録を外に伝えるために『翻訳』する。
今求められているのは、『内側からの外に向けた発信』だろう。
自分という存在がその一端を担えれば、この上ない幸せだろうと、土曜の昼下がりに思う。(誠)
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